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2007年09月03日

仙台市

仙台市といったら以前首都変遷の候補地として挙がった事でも有名ですよね。今日は仙台市について解説したいと思います。

仙台市(せんだいし)は、宮城県の県庁所在地であり、同県で最大の都市。全国で11番目の政令指定都市であり、東北地方の政治・経済の中心である。「杜の都」としても知られる。

広瀬川や青葉山などの自然が都心にあり、また街路樹などの緑が多いことから、「杜の都」の異名を持つ。旧来からの市街地は河岸段丘に形成され、都市計画はニューアーバニズムやコンパクトシティの好例である。近年は郊外に人口が拡散している。人口は約103万人で、昼間人口は約115万人である。

政令指定都市であり、産業は第三次産業の占める割合が高く、中央省庁や企業の出先機関が集まる「支店経済都市」である。

また、東京都と青森市のほぼ中間(双方からともに約350km)に位置している。

では次に戦後の仙台の都市軸の変化について説明します。

高度経済成長期までの都市軸は、旧奥州街道を踏襲した、仙台から南に向かう国道4号沿いと、仙台から北東の多賀城・塩竈・松島に向かう国道45号沿いにあり、鉄道も並走している。1970年代初頭には、この都市軸沿いの松島町から岩沼市にかけて、仙台市を中心に合併して政令指定都市となることを目指したが失敗に終わった。この合併・政令市化が失敗した要因は、当時の仙台市が革新市政だったのを周辺市町の保守系首長が嫌ったためといわれ、すべての調整が済み合併調印の直前まで進んでいたのにもかかわらず合併調印の前日に多賀城市長が突如合併を批判、合併から離脱して仙塩合併は一夜にして瓦解した。結果として合併すれば政令指定都市の移行が約束され、発展が約束されたのにもかかわらず合併が行えなかった。結果として政令指定都市への移行が著しく遅れ、発展が著しく遅れる結果となった。

その後、人口増を背景に、市の北部から南西部にかけての丘陵地に新興住宅地が都心を囲むように弧状に造られた。これらの住宅地と中心部とを繋ぐ幹線道路である旧国道4号沿い(都心から北向き部分)や国道286号沿いが新たに都市軸に加わった。この新都市軸の北の中心である旧泉市と、仙台の西に隣接する旧宮城町・旧秋保町を編入し、1989年に政令指定都市となる。この南北の新都市軸には、仙台市営地下鉄南北線(1987年開業)が鉄道インフラとして加わり、計画都市である北の泉中央(泉区)・南の長町南(太白区)では副都心化が進み、大型商業施設やマンションが林立している(旧奥州街道の七北田宿の人口密集地区西隣に泉中央(泉中央駅)、長町宿→JR長町駅駅前の人口密集地区西隣に長町南(長町南駅)が建設された。JR南仙台駅前の旧・中田宿は現在再開発中)。

また、北西部の丘陵地を弧状に貫く仙台北環状線(北環)、仙台中心部から西にトンネルで旧宮城町方面に向かう仙台西道路の完成により、仙台から西向きの都市軸も出来つつある。但し、この西向きの都市軸は、仙台西道路が自動車専用道路で旧宮城町地区に到るまで出入口がないため、都市としての連続性が断たれ、他の都市軸と比べ背景人口が少ないという特色を持っている。また、都市軸の中心駅の愛子駅や陸前落合駅の駅前は、ほかの都市軸の中心駅よりも遥かに遅くに開発されたため、他の副都心ほどは発展していない。一方で、この軸上には東北自動車道の仙台宮城インターチェンジがあることから広域産業が進出し、アウトレットモールや、小児専門病院である「宮城県立こども病院」、その他の実業系高等教育機関などが立地し、人口も増加している。

また仙台市では都市計画も進んでおります。

都市としての仙台市は、伊達家62万石の城下町から発展したため、その名残りで都心部の道路は碁盤の目状になっているが、広瀬川の河岸段丘上に立地している点や、戦災復興事業において広幅員の道路を縦横に通したことにより、完全な碁盤の目とはいかずやや変則的である。伊達政宗の都市計画は、後に仙台をして 「杜の都」 と呼ばしめたが、戦前までの「杜」は、都市の近代化のために失われた部分も多い。しかし、市当局や市民の努力により、都心部に限らず、多くの道路に街路樹が植えられ緑化が進んだ。また、都心を取り囲む丘陵地や水田などの開発規制を行い、同心円状に、都心・グリーンベルト・住宅地という大ロンドン計画を模した都市計画を作成した。

では次に仙台市の歴史について解説します。

■中世
中世、現在の仙台の地は国分氏の支配下にあった。国分氏は現在の多賀城市や仙台市岩切などを拠点とする留守氏と激しく対立をしていた。しかし、戦国時代に入ると、両氏とも戦国大名として台頭してきた伊達氏からたびたび養子を迎えて相手方より優位に立とうなどの努力をしたが、次第に伊達氏の隷属化に組み込まれていく。伊達政宗の叔父である国分盛重が政宗の下から逐電すると、国分氏の領地であった現仙台は政宗の直轄領に組み込まれる。なお、国分氏が城主の時代の城下町の系譜を引くのが現代の国分町である。

七北田村の沼田姓を名乗った検断新三郎は先祖を「備前」と言った。葛西氏の一族で同氏の没落後、慶長年中・北根村八乙女に来往した。伊達政宗は葛西大崎の遺臣で土着した者を多く村の指導者に任用したが、備前もその一人であった。市名坂の「御霊明神社」は備前が1619年(元和5年)、同地に勧請したものと伝えられている。同家は藩主・綱村、吉村の領内巡行の時寓所を務め「品替え百姓」となった。

沼田家も新道が出来るまでは北根(市名坂高玉)に住んでいた。1623年(元和9年)に七北田町屋敷に移り住んで肝入り(村役人)と検断を兼務した古い家柄である。品替御百姓として検断新三郎の高祖父・重兵衛とあり、後の沼田家である。

■江戸時代
天正まで、現在の仙台の地は「千代(せんだい)」と呼ばれていた。1600年(慶長6年)、伊達政宗が青葉山に仙臺城(仙台城)を築き、城下町を開いて当地の名前を「仙臺(仙台)」と改称したことで、仙台の都市としての歴史が始まった。「伊達62万石」といわれた仙台藩は、江戸幕府(約700万石 = 天領400万石+旗本領300万石)、加賀藩(102.5万石)、薩摩藩(77万石)に次ぎ、尾張藩(約62万石)と並ぶ大藩であり、城下町としての仙台も発展した。伊達政宗が来るまではごく小さな町であり、近隣の多賀城や塩竈の方がはるかに歴史は古い。

開国前の江戸時代の都市には、突出した大都市の三都(江戸・大坂・京)の他、大藩の城下町(金沢・名古屋・鹿児島・仙台・岡山・熊本・広島・徳島)や重要港町(堺・長崎)があり、仙台は、日本で十指に入る都会として賑わった。ただし、その人口は4?7万人程度(時期や資料による)で、東北地方の他の城下町と比べて極端に突出した都会ではなかった。また、藩のたががあったため、東北地方の中心都市としての機能はなかった(城下町の人口は、大体1万石あたり1000人として、石高を乗じたものと似た値になる)。

■幕末から明治維新まで
明治維新時、戊辰戦争において、仙台藩は奥羽越列藩同盟の盟主となって会津藩(幕府)側についたが、敗戦により石高を半分以下に減らされ、困窮した多数の家臣団を蝦夷地(北海道)に集団移住させる事態になった。これにより大量の知識階級(武士階級)が流出し、経済の基盤だった版図を失ったため、城下町仙台の経済は混乱した。

1871年の廃藩置県において、仙台藩は仙台県、角田県、登米県、胆沢県の4県に分割され、現在の仙台都市圏と似た範囲で仙台県が置かれた。その後何度か境界変更を繰り返し、現在の規模になった1872年に宮城県と改称して、同時に仙台区が置かれた。当時の仙台区は、現在の中心部ほどの広さであった。

仙台は歴史があるのですね。ただこの前友達と仙台に遊びに行ったのですが牛タンの太さにはびっくりしました。

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